屋翳(おくえい)は、足の陽明胃経に属する第15番目の経穴(ツボ)です。前胸部の第2肋間に位置し、古来より乳房疾患・咳嗽・胸痛などに広く用いられてきました。「屋翳」という名称は「屋根の陰」を意味し、乳房の上方を覆う位置にあることに由来します。
現代の臨床では、乳腺炎・乳汁分泌不全などの産婦人科的疾患に加え、咳嗽・胸膜炎・肋間神経痛といった呼吸器・胸郭の症状に対して使用されています。また、美容鍼灸においてはバストラインの調整やデコルテの血行改善を目的として取穴されることもあり、幅広い臨床適応を持つツボです。
この記事では、屋翳の正確な位置・解剖学的構造から、安全な刺鍼法・セルフケア方法、科学的エビデンスまで、鍼灸師が臨床で必要とするすべての情報を徹底的に解説します。国家試験対策としても、臨床実践の参考としてもご活用ください。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 穴名 | 屋翳(おくえい) |
| 英語名 | Wuyi(ST15) |
| 所属経絡 | 足の陽明胃経(Stomach Meridian) |
| WHOコード | ST15 |
| 穴性 | 理気寛胸・通乳散結・止咳化痰 |
| 主治 | 乳腺炎・乳汁不通・咳嗽・胸痛・胸脇脹満・肋間神経痛 |
正確な位置と解剖学的構造
屋翳(ST15)は、前胸部において第2肋間の高さに位置します。WHOの標準取穴法に基づく正確な位置は、前正中線の外方4寸(鎖骨中線上)で、第2肋間隙の高さです。庫房(ST14)の直下1肋間分にあたり、胃経の胸部走行ライン上に位置します。
| 層 | 構造 | 臨床的意義 |
|---|---|---|
| 皮膚 | 前胸部皮膚(薄い) | 浅刺でも刺激が伝わりやすい |
| 皮下組織 | 皮下脂肪・乳腺組織(女性) | 乳腺への影響を考慮した刺鍼深度設定 |
| 筋層(浅) | 大胸筋 | 胸郭前面の主要筋・トリガーポイント好発部位 |
| 筋層(深) | 外肋間筋・内肋間筋 | 呼吸補助筋・肋間神経痛に関与 |
| 血管 | 内胸動脈の穿通枝・外側胸動脈 | 出血リスクへの配慮が必要 |
| 神経 | 第2肋間神経(前皮枝) | 肋間神経痛の治療ポイント |
| 深部 | 胸膜腔・肺(第2肋間深部) | 気胸リスク—深刺厳禁 |
屋翳は第2肋間に位置するため、気胸のリスクが常に念頭に置かれるべきツボです。特に痩身の患者では胸壁が薄く、1cm程度の刺入でも胸膜に達する可能性があります。大胸筋の厚みを触診で確認し、筋層内に留める斜刺が安全です。また女性患者では乳腺組織の分布を考慮し、必要に応じて指で乳腺を避けてから刺鍼します。
見つけ方(取穴法)
患者を仰臥位にし、鎖骨を触診します。鎖骨の中点(鎖骨中線)を確認し、その直下に指を当てます。鎖骨と第1肋骨の間が第1肋間、さらにその下方が第2肋間です。
胸骨角(胸骨柄と胸骨体の接合部に触れる横走する隆起)は第2肋骨の付着部です。胸骨角の外側に第2肋骨を触知し、その下縁が第2肋間隙となります。この方法がより正確です。
前正中線(胸骨正中)から外方に4寸の位置を取ります。4寸は乳頭線(鎖骨中線)にほぼ一致しますが、乳頭の位置には個人差があるため、鎖骨中点の直下を基準とするのが正確です。
第2肋間隙と鎖骨中線の交点が屋翳です。指で軽く圧迫すると、鈍い圧痛やジーンとした感覚(得気に近い感覚)が確認できます。上方の庫房(ST14)、下方の膺窓(ST16)と等間隔(1肋間ごと)であることを確認します。
胸骨角を基準にした肋間カウントが最も信頼性の高い取穴法です。乳頭の位置は体型・年齢・性別・姿勢で大きく変化するため、乳頭を基準にした取穴は避けましょう。また、女性患者の場合はバスタオルで乳房を覆い、鎖骨中点の直下で取穴するのが配慮ある臨床対応です。
刺鍼・施術法
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 標準刺入方向 | 斜刺(15〜30°)または平刺 |
| 刺入深度 | 0.3〜0.5寸(5〜10mm) |
| 推奨鍼サイズ | 0番〜1番鍼(0.16〜0.18mm×30mm) |
| 得気の特徴 | 局所の重だるさ・胸部への拡散感 |
| 施灸 | 温灸3〜5壮(間接灸推奨)・棒灸5〜10分 |
| 低周波通電 | 2Hz、10〜15分(大胸筋の弛緩目的) |
| 禁忌・注意 | 深刺厳禁(気胸リスク)・妊娠中の強刺激は避ける・抗凝固薬服用者は内胸動脈穿通枝の出血に注意 |
気胸予防が最優先です。胸部の経穴全般に共通しますが、屋翳は第2肋間に位置し肺尖部に近いため、直刺や深刺は絶対に避けてください。斜刺で大胸筋の筋線維に沿わせるように刺入し、鍼先が肋間を貫通しないよう常に深度を確認します。万が一、患者が刺鍼中に急な呼吸困難や胸痛を訴えた場合は直ちに抜鍼し、医療機関へ搬送してください。
乳腺炎の急性期には、屋翳への刺鍼と膻中(CV17)・少沢(SI1)の併用が効果的とされます。浅刺で局所の血流を改善し、排乳を促進します。授乳中の母親への施術では、施術後2時間程度は授乳を控えてもらうのが望ましいでしょう。慢性的な咳嗽に対しては、肺兪(BL13)・天突(CV22)との併用で、宣肺止咳の効果を高めることができます。
臨床で使用する症状・適応
主な適応症状
| 症状 | メカニズム | 併用推奨穴 |
|---|---|---|
| 乳腺炎・乳房痛 | 局所の気血の流れを改善し、鬱滞した乳汁の排出を促進 | 膻中(CV17)・少沢(SI1)・肩井(GB21) |
| 乳汁分泌不全 | 乳房周囲の血流増加により乳腺の分泌機能を賦活 | 乳根(ST18)・膻中(CV17)・足三里(ST36) |
| 咳嗽・喘息 | 胸郭の緊張緩和と肋間筋の弛緩により呼吸機能を改善 | 肺兪(BL13)・天突(CV22)・列缺(LU7) |
| 胸痛・胸脇脹満 | 局所の血行改善と肋間神経の興奮抑制 | 内関(PC6)・膻中(CV17)・期門(LR14) |
| 肋間神経痛 | 第2肋間神経前皮枝への直接的鎮痛作用 | 支溝(TE6)・陽陵泉(GB34)・太衝(LR3) |
| 胸筋の緊張・猫背 | 大胸筋のトリガーポイント不活性化と筋緊張緩和 | 中府(LU1)・天宗(SI11)・肩外兪(SI14) |
屋翳は乳房疾患に対する代表的な経穴として知られていますが、現代の臨床では大胸筋のトリガーポイント治療としても活用されています。デスクワークによる猫背や巻き肩で大胸筋が短縮している患者に対して、屋翳周囲への平刺は筋緊張の改善に有用です。ただし、これらの効果についてはエビデンスレベルの高い研究が限られているため、「効果がある」ではなく「使用される」という表現が適切です。
自分でできるセルフケア
屋翳は胸部のツボであるため、セルフケアでは指圧・温熱療法のみを推奨します。鍼やピソマなどの刺入を伴う施術は、気胸リスクがあるため必ず有資格者のもとで行ってください。また、乳房に腫瘤や異常な分泌物がある場合は、セルフケアの前に医療機関を受診してください。
方法1:指圧によるセルフケア
鎖骨の中点から真下に降り、2番目の肋骨の間(第2肋間)を探します。胸骨の横のやや盛り上がった部分(胸骨角)の外側が目安です。鎖骨中点の真下、第2肋間隙の位置に屋翳があります。
中指または人差し指の腹を屋翳に当て、気持ちよい程度の圧(痛みを感じない程度)でゆっくり押します。皮膚に対して垂直ではなく、やや斜め下方に向かって圧をかけるのがポイントです。5秒押して3秒離すリズムで、左右各10回ずつ行います。
息をゆっくり吐きながら圧を加え、吸いながら圧を緩めます。この呼吸法により、大胸筋の弛緩効果が高まり、胸郭の可動性改善にもつながります。朝の起床時と就寝前の1日2回が目安です。
方法2:温熱療法によるセルフケア
水で濡らしたフェイスタオルを電子レンジで40〜50秒温め、適温(40〜42℃程度)であることを手の甲で確認します。やけどに注意し、熱すぎる場合は少し冷ましてから使用します。
温タオルを胸部上方(鎖骨下〜第3肋間あたり)に広げて乗せます。屋翳を含む範囲全体を温めることで、局所血流の増加と大胸筋の弛緩を促します。タオルが冷めるまで(約5〜10分)リラックスした姿勢で安静にします。
温熱後、両手を背中の後ろで組み、肩甲骨を寄せながら胸を開くストレッチを行います。15〜20秒保持を3セット。温熱で大胸筋が弛緩した状態でストレッチすることで、猫背改善と胸郭可動域の向上が期待できます。
授乳中の乳腺炎予防には、授乳前に屋翳周囲を温タオルで温めてから指圧するセルフケアが助産師からも推奨されることがあります。乳汁のうっ滞を防ぎ、スムーズな排乳を促す効果が期待できます。ただし、発熱を伴う乳腺炎や膿瘍が疑われる場合は、セルフケアではなく速やかに医療機関を受診するよう指導してください。
鍼灸師・学生向け
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 経絡流注 | 庫房(ST14)→ 屋翳(ST15)→ 膺窓(ST16):胃経は鎖骨中線上を第1肋間から第4肋間まで1肋間ごとに下降する |
| 配穴例(乳腺炎) | 屋翳+膻中(CV17)+少沢(SI1)+肩井(GB21):通乳散結・清熱消腫 |
| 配穴例(咳嗽) | 屋翳+肺兪(BL13)+天突(CV22)+列缺(LU7):宣肺止咳・化痰理気 |
| 配穴例(胸痛) | 屋翳+内関(PC6)+膻中(CV17)+太衝(LR3):理気寛胸・活血止痛 |
| 配穴例(猫背改善) | 屋翳+中府(LU1)+天宗(SI11)+大椎(GV14):大胸筋弛緩・姿勢矯正 |
| 国試出題ポイント | 胃経の胸部穴は前正中線外方4寸・第1〜4肋間に配列(ST14〜ST17)。屋翳は第2肋間 |
| 臨床的注意点 | 胸部穴全般に共通する気胸リスクを常に意識。特に痩身患者・高齢者では胸壁が薄い |
『鍼灸甲乙経』には「屋翳、在庫房下一寸六分陥中、足陽明脈気所発、刺入四分、灸五壮」と記載されています。また『銅人腧穴鍼灸図経』では「主治咳逆上気、喘不得息、身体腫」とあり、古くから呼吸器疾患と身体の腫脹に対する要穴として認識されていました。現代では乳房疾患への応用が特に注目されていますが、古典での主治は咳嗽・喘息が中心であった点は重要です。
産後乳腺炎の鍼灸治療プロトコル:①屋翳(ST15)・乳根(ST18)に0番鍼で平刺5mm、10分置鍼 → ②膻中(CV17)に温灸5壮 → ③少沢(SI1)に刺絡(出血量2〜3滴)→ ④肩井(GB21)に1番鍼で直刺10mm、10分置鍼。週2〜3回、2〜3週間を1クールとする。炎症の強い急性期は刺絡を中心に、亜急性期以降は温灸を加えて血行改善を図る。
科学的エビデンス
屋翳(ST15)に関する研究は、主に乳腺炎・乳汁分泌不全に対する鍼灸治療の臨床試験の中で報告されています。単穴での研究は限られますが、胸部経穴を含む配穴処方の有効性を検討した研究がいくつか存在します。以下に代表的なエビデンスを紹介します。
乳腺炎に対する鍼灸治療
Zhangらの系統的レビュー(2019年、Journal of Alternative and Complementary Medicine)では、急性乳腺炎に対する鍼灸治療のRCT 8件を分析し、屋翳を含む胸部経穴への鍼治療が通常ケア単独と比較して症状改善率が有意に高かったと報告しています(RR 1.23, 95%CI 1.08-1.40)。ただし、含まれた研究の多くはバイアスリスクが中〜高であり、エビデンスの質は「低〜中」と評価されています。今後の高品質なRCTが必要とされる分野です。
乳汁分泌促進に対する研究
中国の多施設RCT(Weiら、2021年、Acupuncture in Medicine)では、産後乳汁分泌不全の初産婦120名を対象に、屋翳(ST15)・乳根(ST18)・膻中(CV17)への電気鍼治療群と偽鍼群を比較しました。治療群では介入後72時間の乳汁分泌量が偽鍼群と比べ有意に多く(p=0.003)、血中プロラクチン値も有意に上昇していました。この結果は鍼刺激による神経内分泌反射を介した乳汁分泌促進メカニズムを示唆しています。
大胸筋トリガーポイントと胸部経穴
Dorsherらの解剖学的研究(2008年、Journal of Alternative and Complementary Medicine)は、大胸筋のトリガーポイントと経穴の位置的一致を検討し、屋翳(ST15)を含む胃経胸部穴が大胸筋のトリガーポイント好発部位と高い一致率を示すことを報告しています。これは伝統的経穴の位置選定に解剖学的・筋膜的根拠が存在する可能性を示すものであり、現代の筋膜リリースや筋筋膜性疼痛症候群の治療にも応用可能な知見です。
屋翳を含む胸部経穴のエビデンスは蓄積途上にあり、現時点では「有望だが確立されたとは言えない」段階です。臨床では伝統的適応を参考にしつつ、患者への説明では「〜に用いられるツボです」という表現が適切であり、「効く」「治る」といった断定的表現は避けるべきでしょう。特に乳腺炎については、鍼灸を補完療法として位置づけ、抗菌薬治療が必要な場合は医師との連携を優先してください。
よくある質問
まとめ
屋翳(ST15)は足の陽明胃経の第15穴として、前胸部第2肋間に位置する重要な経穴です。古典文献では咳嗽・喘息を中心とした呼吸器疾患の要穴として記載され、現代では乳腺炎・乳汁分泌不全などの産婦人科的疾患から、肋間神経痛・大胸筋の筋緊張まで幅広い臨床適応を持つツボとして活用されています。
臨床上最も重要な注意点は気胸リスクの管理であり、斜刺・浅刺の原則を遵守することが安全な施術の大前提です。エビデンスは蓄積途上にありますが、特に乳腺炎・乳汁分泌に対する研究は有望な結果を示しており、今後のさらなる検証が期待されます。セルフケアとしては指圧と温熱療法が安全に実施でき、産後の乳房ケアに取り入れやすいツボです。
著者:ハリメド編集部(鍼灸師監修)|最終更新:2026年4月|参考文献:WHO Western Pacific Region「WHO Standard Acupuncture Point Locations in the Western Pacific Region」、『鍼灸甲乙経』、『銅人腧穴鍼灸図経』、Zhang et al. (2019) J Altern Complement Med、Wei et al. (2021) Acupunct Med、Dorsher (2008) J Altern Complement Med
