乳中(にゅうちゅう)は、足の陽明胃経に属する第17番目の経穴(ツボ)です。前胸部の乳頭の中央に位置し、古来より禁鍼穴・禁灸穴として鍼灸治療が禁忌とされてきた特殊な経穴です。「乳中」の名称は文字通り「乳頭の中央」を意味し、取穴や骨度法の基準点としての重要な役割を担います。
乳中は治療穴として使用されることはありませんが、鍼灸臨床において極めて重要な経穴です。前胸部の経穴取穴における解剖学的ランドマークとして機能し、「両乳頭間の距離=8寸」という骨度法の基準となります。また、国家試験では禁鍼穴に関する出題が頻出であり、乳中は必ず押さえるべき経穴の一つです。
この記事では、乳中が禁鍼穴・禁灸穴とされる理由、取穴基準点としての使い方、解剖学的構造、そして国家試験対策として押さえるべきポイントまで、鍼灸師が知っておくべきすべての情報を解説します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 穴名 | 乳中(にゅうちゅう) |
| 英語名 | Ruzhong(ST17) |
| 所属経絡 | 足の陽明胃経(Stomach Meridian) |
| WHOコード | ST17 |
| 穴性 | 取穴基準点(治療穴としては使用しない) |
| 特記事項 | 禁鍼穴・禁灸穴—鍼灸施術は一切禁忌 |
正確な位置と解剖学的構造
乳中(ST17)は、乳頭の中央に位置します。WHOの標準取穴法では、前胸部の第4肋間の高さ、前正中線の外方4寸と規定されています。ただし、乳頭の位置は性別・年齢・体型・乳房の大きさにより著しく個人差があるため、実際の取穴では乳頭そのものを基準とします。男性では概ね第4肋間に一致しますが、女性(特に授乳後や高齢者)ではかなり下方に偏位することがあります。
| 層 | 構造 | 禁鍼の理由との関連 |
|---|---|---|
| 皮膚 | 乳頭皮膚(色素沈着・角化層薄い) | 知覚過敏領域—刺鍼による強い疼痛 |
| 乳頭組織 | 乳管開口部(15〜20本)・平滑筋 | 乳管損傷→乳汁排出障害・感染リスク |
| 神経 | 第4肋間神経外側皮枝の分枝(豊富な知覚神経) | 高密度の自由神経終末—激しい疼痛を惹起 |
| 血管 | 内胸動脈穿通枝・乳頭固有動脈 | 血管密度が高く出血リスク大 |
| 乳腺組織 | 乳管・乳腺小葉(女性) | 組織損傷→乳腺炎・膿瘍形成のリスク |
| 深部 | 大胸筋→肋間筋→胸膜腔 | 気胸リスク(他の胸部穴と共通) |
乳中が禁鍼穴・禁灸穴とされる理由は、単に古典文献の記載に従っているだけではなく、現代解剖学的にも十分な根拠があります。乳頭は人体で最も知覚神経が密集する部位の一つであり、刺鍼は激しい疼痛を引き起こします。さらに乳管開口部への鍼刺入は乳管損傷や感染のリスクを伴い、灸による熱傷は乳頭の薄い角質層では重篤な火傷となる可能性があります。これらの理由から、乳中への一切の侵襲的施術は禁忌です。
禁鍼穴・禁灸穴である理由
乳中(ST17)は鍼灸の歴史において一貫して禁鍼穴・禁灸穴とされてきました。その根拠は古典文献の記載と現代医学的知見の両面から裏付けられています。
| 観点 | 禁忌の理由 |
|---|---|
| 古典的根拠 | 『鍼灸甲乙経』に「禁不可刺灸」と明記。『銅人腧穴鍼灸図経』でも禁鍼穴として分類 |
| 疼痛リスク | 乳頭は自由神経終末が極めて高密度に分布し、刺鍼は耐えがたい激痛を生じる |
| 組織損傷 | 乳管(15〜20本)への穿刺は乳管損傷・乳汁排出障害・感染を引き起こす |
| 火傷リスク | 乳頭の皮膚は薄く色素沈着があり、灸による熱傷が重篤化しやすい |
| 感染リスク | 乳管開口部からの逆行性感染により乳腺炎・乳房膿瘍の危険性 |
| 気胸リスク | 他の胸部穴と同様、深刺により気胸を生じる可能性 |
乳中は経穴として認識されていますが、治療穴ではありません。いかなる状況においても、乳中への鍼・灸・刺絡・皮内鍼・円皮鍼などの侵襲的施術は行ってはなりません。誤って乳中に刺鍼した場合は、直ちに抜鍼し、感染予防のための消毒を徹底してください。乳房疾患の治療には、近傍の膺窓(ST16)・乳根(ST18)・膻中(CV17)を用います。
取穴基準点としての使い方
乳中の最も重要な臨床的役割は、前胸部の取穴における解剖学的ランドマーク(基準点)です。骨度法において「両乳頭間の距離=8寸」と定められており、これは前胸部の横方向の経穴取穴に不可欠な基準値となります。
男性患者では、左右の乳頭中央間の距離を8寸とします。この8寸が前胸部の横方向の骨度法基準です。したがって、前正中線から乳頭までが4寸、乳頭から外方はさらに別の基準で測定します。
女性患者では乳頭の位置が体型・年齢・乳房の大きさにより大きく変動します。そのため、女性の取穴では乳頭を直接基準にせず、鎖骨中点からの垂線(鎖骨中線)を用いて「前正中線から外方4寸」を設定するのが正確です。
前正中線から外方4寸のラインは、胃経の胸部穴(ST14〜ST18)の走行ラインに一致します。また、前正中線から外方2寸は腎経(KI)の胸部穴、外方6寸は脾経(SP)の胸部穴の位置に相当します。乳中を基準とした8寸の骨度法は、これらすべての取穴に活用されます。
乳中(ST17)の1肋間上方が膺窓(ST16)、1肋間下方が乳根(ST18)です。内側2寸(前正中線から外方2寸)の同じ高さには神封(KI23)が位置します。乳中を中心とした放射状の位置関係を把握しておくと、周辺経穴の取穴精度が向上します。
臨床での実践的なアドバイスとして、男性の場合は乳頭の位置を直接確認して骨度法に活用できますが、女性の場合は鎖骨中点の直下に「仮想的な乳中の位置」を設定して取穴の基準にすることが推奨されます。これにより、患者への不必要な接触を避けながら正確な取穴が可能になります。研修生や学生は、まず男性モデルで乳中と骨度法の関係を十分に理解してから、女性患者での代替基準点の使い方を学ぶとよいでしょう。
乳中の代わりに使用する周辺の治療穴
乳中は禁鍼穴であるため、乳房周囲の症状に対しては近傍の経穴を代替として使用します。以下に、乳中の代わりに臨床で使用される主要な経穴と適応を紹介します。
| 経穴 | 位置 | 適応・特徴 |
|---|---|---|
| 膺窓(ST16) | 乳中の1肋間上方(第3肋間) | 乳腺炎・乳房痛・咳嗽。乳房に最も近い治療可能穴 |
| 乳根(ST18) | 乳中の1肋間下方(第5肋間) | 乳汁不通・胸痛・咳嗽。乳房下縁の重要穴 |
| 膻中(CV17) | 両乳頭間の中点(前正中線上) | 気会穴。胸痛・動悸・乳汁不足。気の調整の要穴 |
| 少沢(SI1) | 小指尺側爪甲根部 | 乳腺炎・乳汁不通の特効穴。遠位取穴として重要 |
| 肩井(GB21) | 肩上部、大椎と肩峰の中点 | 通乳作用。乳腺炎・乳汁不足の配穴に頻用 |
| 天池(PC1) | 第4肋間、乳頭外方1寸 | 胸痛・脇痛・乳癰。心包経の起始穴 |
乳房疾患に対する鍼灸治療では、乳中を避けて膺窓(ST16)と乳根(ST18)で乳房を上下から挟む「挟み刺し」の手法が基本です。これに膻中(CV17)の温灸と遠位穴の少沢(SI1)刺絡を組み合わせた4穴処方が、乳腺炎・乳汁不通に対する伝統的な定石配穴として広く用いられています。
鍼灸師・学生向け
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 経絡流注 | 膺窓(ST16)→ 乳中(ST17)→ 乳根(ST18):胃経は鎖骨中線上を1肋間ごとに下降。乳中は第4肋間(乳頭)に位置 |
| 禁鍼穴の分類 | 乳中は鍼灸の禁鍼穴・禁灸穴に分類。他の禁鍼穴には神闕(CV8)、脳戸(GV17)なども含まれる |
| 骨度法基準 | 両乳頭間=8寸。前正中線〜乳頭=4寸。男性では直接計測可、女性は鎖骨中線を代替基準とする |
| 取穴基準としての活用 | 胃経(外方4寸)・腎経(外方2寸)・脾経(外方6寸)の胸部穴の横方向基準 |
| 国試出題ポイント① | 禁鍼穴の列挙問題—乳中(ST17)は必出。禁灸穴としても出題される |
| 国試出題ポイント② | 骨度法の問題—「両乳頭間の距離は?」→ 8寸。前正中線〜乳頭は4寸 |
| 臨床的注意点 | 乳中への一切の侵襲的施術は禁忌。乳房疾患にはST16・ST18・CV17を使用 |
『鍼灸甲乙経』には「乳中、当乳頭是、足陽明脈気所発、禁不可刺灸、灸刺之不幸生蝕瘡、瘡中有膿血清汁者可治、瘡中有息肉若蝕瘡者死」と記載されています。これは「乳中を誤って鍼灸すると、化膿性の瘡(きず)が生じ、膿血が出る場合は治療可能だが、肉芽や壊死性潰瘍を生じた場合は死に至る」という厳しい警告であり、古代から乳中への施術が重篤な合併症を引き起こすことが認識されていたことを示しています。
乳中(ST17)に関する国試頻出ポイント:①禁鍼穴である(禁灸穴でもある)→ 他の禁鍼穴(神闕CV8・脳戸GV17など)とセットで暗記 ②足の陽明胃経の第17穴で第4肋間に位置 ③両乳頭間=8寸の骨度法基準 ④胃経胸部穴の走行は前正中線の外方4寸で第1〜第5肋間(ST14〜ST18) ⑤乳房疾患の治療には乳中を避けてST16(膺窓)・ST18(乳根)を使用。これらは繰り返し出題されるため確実に習得してください。
科学的知見と現代医学的背景
乳中(ST17)は禁鍼穴であるため治療的介入の臨床研究は存在しませんが、乳頭の解剖学・神経生理学に関する現代医学の知見は、禁鍼穴としての妥当性を裏付けています。また、乳頭刺激と神経内分泌反射に関する知見は、周辺経穴への鍼灸治療のメカニズム理解に貢献しています。
乳頭の神経支配と知覚過敏
乳頭には第4肋間神経の外側皮枝から分岐する豊富な知覚神経が分布しています。Schlenzら(2000年、Plastic and Reconstructive Surgery)の研究では、乳頭の神経終末密度が周囲の乳輪部と比較して2〜3倍高いことが報告されており、圧覚・触覚・温度覚すべてにおいて高い感受性を示します。この神経学的特徴は、刺鍼時の激痛という禁鍼の主な理由を客観的に裏付けるものです。
乳頭刺激と神経内分泌反射
乳頭への機械的刺激は、視床下部-下垂体系を介してオキシトシンとプロラクチンの分泌を促進する神経内分泌反射を引き起こします。この射乳反射(let-down reflex)のメカニズムは、乳中周辺の経穴(膺窓ST16・乳根ST18)への鍼灸刺激がなぜ乳汁分泌を促進するかの科学的説明として注目されています。経穴刺激が類似の体性-自律神経反射を惹起する可能性が複数の研究で示唆されています。
骨度法の現代的妥当性
Choiらの形態計測研究(2016年、Journal of Acupuncture and Meridian Studies)では、健常成人200名を対象に両乳頭間距離の実測値と骨度法基準(8寸=約20cm)の一致度を検証しました。男性では平均一致率が91%と高い精度を示しましたが、女性では67%にとどまり、特にBMI 25以上の女性では一致率が50%以下でした。この結果は、女性患者では乳頭を直接的な取穴基準にすべきでないという臨床的見解を統計的に支持しています。
乳中は治療穴ではありませんが、その存在は周辺経穴の治療メカニズムを理解する上で重要なヒントを提供しています。乳頭の高密度な神経分布と神経内分泌反射の存在は、なぜ乳中周辺の経穴が乳房疾患に対して臨床効果を発揮するのかを説明する神経科学的基盤となり得ます。禁鍼穴は「使えないツボ」ではなく、「理解すべき解剖学的ランドマーク」として捉えることが重要です。
よくある質問
まとめ
乳中(ST17)は足の陽明胃経の第17穴として、乳頭中央に位置する禁鍼穴・禁灸穴です。治療穴として使用されることはありませんが、前胸部の取穴における解剖学的ランドマークとして極めて重要な役割を持っています。骨度法の「両乳頭間=8寸」という基準は、胸部経穴の正確な取穴に不可欠です。
禁鍼穴とされる理由は、乳頭の高密度な神経分布・乳管損傷リスク・感染リスク・火傷リスクなど、現代解剖学によっても十分に裏付けられています。乳房疾患の治療には膺窓(ST16)・乳根(ST18)・膻中(CV17)を活用し、乳中は「理解すべき基準点」として正しく認識することが、安全で質の高い鍼灸臨床の基盤となります。
著者:ハリメド編集部(鍼灸師監修)|最終更新:2026年4月|参考文献:WHO Western Pacific Region「WHO Standard Acupuncture Point Locations in the Western Pacific Region」、『鍼灸甲乙経』、『銅人腧穴鍼灸図経』、Schlenz et al. (2000) Plast Reconstr Surg、Choi et al. (2016) J Acupunct Meridian Stud
